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2014/06/26

Double Edged Heart





沖縄には、山に行けばニワトリ、海に行けばヤシガニ、畑にはドラゴンフルーツがあって食べ放題だったな。








Rhymester - フラッシュバック、夏。








ユカちゃんとサヤカちゃんは東京から遊びに来た友達。

ここは、1ヶ月3万円のタコ部屋 宿を抜け出して、

僕とジョージさんとリッパで1万円づつ出して借りてた2DKのアパートの真ん中の部屋。

国際通りのすぐ裏で、屋上の貯水タンクに穴が開いてるから、

常にこの部屋の真ん中から雨が降ってて、その滴は植木鉢で受けてたな。

テレビは無かったから、暇な時は雑誌の切抜きや地図を壁に貼りまくってた。

今見ると貧乏臭いけど、当時はデザイナー気取りで、

「くぅー、イカした部屋になったぜー。」 と満足してたんだ。






サヤカちゃんは、確か、なんちゃらドラゴンって名前のキャバクラで働いてた。

ある時、ヤクザの客が来て、「俺の女になれ。」 と言われたそうだ。

「なんでやねん?」 と断ったら、翌日から4人組みのチンピラが家と店の前に毎日やってきて、追い込まれた。

店の店長に言っても、友達に相談しても、みんな顔を下に向けた。

しょーがないから警察署に行ったら、その頃はまだストーカー法が出来る前で、

「何か起きてからでないと、事件として扱えませんから、」と言われて帰された。

衝撃的にムカついたので、翌日から毎日、警察署に怒鳴り込んで、泣き喚いて、

10日目頃に、やっとボンクラ警察どもが腰を上げ、解決に向かったそうだ。


ちなみに、この写真の時は、「あたしゃ出来る!」 って言うからバリカン渡したら、

刃を上下逆に当てて刈りやがって、6mmになるトコが1mmになった。

僕はそーゆー細かい事を言っちゃう男なんだな。






左側のマコっちゃんとは、那覇の月光荘って安宿で出来た初めての友達だった。

月光荘には沖縄に来てから1ヶ月目頃から3ヶ月くらい泊まってた。


当時はバックパッカーが流行りだした頃で、これから外国に旅立つ人や、

色々な国を旅して台湾から帰国した奴らがワラワラしてた。

ボケーっとしてると、真顔で 「自分探しっすか?」 とか聞かれた。

見失ったばっかりじゃボケ。


それでも、みんなキャピキャピと、観光に出かけていって、

僕が起きる お昼過ぎには殆ど人がいないんだけど、

マコっちゃんは毎日、ベンチでボーっとタバコ吸ってたんで、話すようになった。






この日は、僕の仕事が休みだったんで、雨の日に、ゴミ袋を着て、憧れのシュノーケリングに行った。

ゴーグル持ってなかったから、ボヤけて全然 海中は見えなかったけど、楽しかったのを覚えてる。

マコっちゃんは福井県出身の、僕と同じ歳で、高校中退して板前の仕事を6年半して、

自分の店を出す為に、鬼の節約かまして、なんと1000万円貯めたそうだ。


で、そろそろ物件を探すかなって頃に、通帳を開いたら残高は数千円で、6万円だけ挟まってた。

漁師をやってた雷親父の借金返済に消えたそうだ。親父に 「文句あんのか、このやろー!」 と怒られたそうだ。



マコっちゃんは1ヶ月くらいして福井に帰っていったが、その後も時々連絡を取り合ってた。

出会ってから5年くらい経った頃、子供が生まれたってんで、東京から福井までバイクで遊びに行った事があった。

その時は、日給8000円で土木作業の仕事をしながら、

「ほやなー、あれからずっとやる気でんわなー。」 と言ってたな。


それから数年後、マコっちゃんが新鮮なカニを、クール宅急便で沢山送ってくれたことがあった。

僕は、インスピレーションに従って、カレー粉と一緒にナベにぶち込んで食べたら、カレーの味しかしなかった。

あれは間違いだったよ。カニを台無しにしてゴメンね!







左から、ナーミ、ニット、モギン、僕。

ニットは変なアクセサリーを自作してた。

この日は、左腕の手首にある、肉を加工する器具を使った新作のお披露目で、上機嫌だった。






モギンは、酔っ払うと友達の彼女とかにも手を出すようなトコがあって、

残念なヤツだったな。






ナーミはこのビラーゴで日本を1人で3周ぐらいしてた、渡りのバイカーだった。

沖縄では、国際通りに無許可でゴザ露店を出して、手編みのヘンプ・アクセサリーを売ってた。


ナーミは実の父親に性的虐待を受けてたそうで、

その影響か、男とセックスする時に、濡れないそーだ。

溢れる愛はあるのに、愛液は溢れないから、いつも恋愛が上手くいかないって言ってた。



恋愛感情とセックスとファックの関係には七不思議がある。

きっとロリコン糞野朗にも、ゲイやスカトロ馬鹿の様な抑圧された感情があって、

腐女子の様にモンモンと生きて死ぬ人が大半なんだろうと思う。

まともな性癖を持って生まれた僕らは、気が付きにくいだけで、

性欲は、それ自体が悪魔の怨念のようなものかもしれないね。





2014/06/22

Scenery of the Family





これを見ると僕は、離散してしまった家族の写真を見るような、哀愁を感じてしまうんだ。

僕の実の家族は離散した事ないけどね。

左から、同居していたジョージさん、リッパ、僕、少しの間お世話になった月光荘のP君。

結局、僕は沖縄で2年弱を過ごした。竜宮城のようで居心地がよかったんだと思う。








山嵐 - 山嵐







那覇は松山のクガニヤって居酒屋では色んな面白い人と出合った。

山嵐のベースの武史さんとは、偶々隣あわせたんで騒いだら、同席さしてくれた。






山嵐のボーカルのサトシさん。






写真の一番下にいるのは、那覇で1番硬派なクラブ、火の玉ホールのミツさん。

右腕のスリーブタトゥーは、はだしのゲンのキャラが散りばめられてて、かっこよかった。

あのミツさんの、ヲタトゥーのセンスが僕に与えた影響はでかくて、マイヒーローだったな。




bar 乱波洞


乱波洞のマスターはファンキーで、ちょくちょくヤマハのパッソルの前に子供を乗っけて国際通りをノーヘルで走ってた。

この日は調子が良くて、得意の倍音を聞かせてくれた。倍音ってのは、坊主がお経を読む時みたいな声のこと。

割り物とか、カクテルを頼むと、時々、混ぜる棒が見つからない時があって、そんな時は、指で回して出てきた。

最高に面白かった。






写真の真ん中のリッパは、オオシロ カズノリって名前だったが、何故だか小学校の頃からリッパってあだ名で呼ばれてた。

リッパは地元、首里出身の奴だったが、片親のおかんが再婚して家に居にくくなって、車で生活してた。

当然、沖縄の夏は長いから、毎日、車のエアコンをつけてたら、ある日、エアコンのファンが音を立ててヒシャげた。

そいで、すげー悲壮感を発しながら、素泊まり宿にやってきたトコで、僕と会った。

沖縄では、若い人はそうでもないが、年配の人間は、本州の人間に良いイメージを持ってない人が多い。

薄い顔のリッパ、「ヤー、ナイチャー(内地の人)か?何しに来たば?」 と、よくおっさんに絡まれてたな。

で、この頃、「これで、島んちゅ(沖縄島民)っぽく見えるかな?」って由布島キャップを被ってた。

絶対に逆効果だって分かってたと思うけど、そこがリッパの面白いトコだよね。


手前のユイちゃんは、時々、廃墟でヌードモデルとかやってた。

そいで僕らに、「あんたらはまだ子供だね、おっぱい の偉大さを分かってない。」 と説教された。

ユイちゃんと僕は同じ歳だったけどね。

確か、おっぱい には、金や政治や、世界を動かす力が秘められてるってな事を言ってた。

あの頃は、「はいはい、わかったわかった。」って思ってたけど、

たぶん、武田久美子が言った 「美人とブスでは、人生で得する金額に億の差がでる」 みたいな事かな?

バカとおっぱいは使い様なんだろーね。僕はお尻派だけどね。






ジョージさんは、→前にも書いた事←があるが、酒を飲むと二重人格になるから、みんなの嫌われ者だった。

僕は好きだったけどね。






ジョージさんは、当時もう32歳くらいだったけど、「うーん、働いてる場合じゃないな。」 とか言って、

しょっちゅう仕事を休んで遊んでた。僕とリッパは毎日働いてたのにな。

ある時、ジョージさんが知り合いの人らと離島にキャンプしに行って帰ってきた。

そいで、満足そうに、「海の中で、オナニーして、ウンコしてきた。気持ちよかったぞー。」と言って、

「林なら分かるだろ?ウンコすると、海水がケツに入ってヒリヒリするよな?」 なんてニコニコして続けやがった。

一緒に行った他の人に後から聞いたら、やっぱりジョージさんはキャンプで悪酔いしたらしく、

初対面の人に、危うくナタで殴り殺されそうだったと聞いた。さすがジョージ兄貴、素敵!


2014/06/21

Stand by Me



子供の頃、説教する大人が大嫌いだった。

何故なら決まって彼らは つまらない顔をしていたからね。

自分が大人と呼ばれる年齢になった頃から、

自分を正当化する為に、人に偉そうな事を言うようになった。

いったい今、僕はどんな顔をしているのだろうか?





「もし、ブログに書くことが無くなったら、俺たちの事を書けよ。」

リバー・フェニックスに似てたかもしれない友達が夢の中でそう言った。

人間の体は70%が水であるらしー。水は停滞するとすぐに澱む。

例え人生が、ドブの中を歩く様でも、前か後ろに進まなければならないんだ。








Pantera - 5 Minutes Alone








あれは僕が、22歳の頃の事。工場でエレベーターを造っていた僕は、

工場にいる気さくな おっさん達に自分の10、20年後を重ねて想像し、

言い様の無い倦怠と恐怖を感じて、ブルブルと震えていた。

その想いは日毎に膨らみ、遂にお盆休みを切っ掛けに、僕は現実から逃げる事にした。

夏が嫌いで、海も嫌いだったから、普通なら目指すのは北海道のはずなんだけど、

それはあまりにも軟弱だなと思い直して、沖縄を目指すことにした。

通勤で使っていたアドレスV100に、必要以上に荷物を詰め込んで、





昼は暑いから、夕方から朝まで走った。箱根のあたりで既にケツが痛くなったな。

元々、貧乏性だったから、寝るのは全部、野宿した。

段々と慣れてきて、眠くなったら、繁華街でも、真昼の道端でも、バイパスの中央分離帯でも、

ホームレスくらい余裕で寝れるようになった。

鹿児島まで5日かかった。





鹿児島で1日待って、沖縄行きのフェリーに乗った。

フェリーに乗ると、同じ様に小汚い格好の若者が沢山ウロウロしてた。

1人で旅してる人は大抵、会話に飢えていて、1言話しかけると、倍の言葉が返ってきた。





手前が僕で、左側が伊藤君、僕の奥にいるのが渡辺君。

伊藤君は世田谷から親父のフリーウェイで、渡辺君は杉並区からチャリで来てた。

自分に出来るか?とか、やりたいか?とか、楽しいのか?とか、ドMなだけだろ?とかは、置いておいて、

チャリの奴等はやっぱり凄い。


「もーね、峠一つ越える度に感動するよ。」と渡辺は言ってた。

なんたって、鹿児島まで寄り道しながら1ヶ月くらいかかってるし、

ある時、何日も洗ってないTシャツに小虫がとまって、そして間も無く死んだらしー。

それでまた感動して、泣きながらチャリを漕いで、

時々、無の境地に達する瞬間があるんだって言ってた。

ちなみに、こん時着てるのが虫が死ぬほど臭いTシャツだよ。これが、





沖縄について、ソバを食って 「じゃあ、」 と言ってみんなと別れた。

僕は、沖縄に来ること以外に目的がなかったし、観光地にも興味がなかったから、

南部のオーシャンビューで最高に眺めのいいバス停で2日間、ゴロゴロしてた。





バス停で3日目の朝に、伊藤君から電話があって、また渡辺君と3人で集まり、

この貧乏臭い軽自動車を借りて、沖縄を一周した。

途中、道行く人に道を尋ねたら、

「おぉ、タメ吉さん!?久しぶりやっさー!」

と人違いされた。オールドスクールか、ばかやろ。




伊藤君は地元が世田谷の用賀で、高校生の頃は三田佳子の家で佳子の息子達と一緒にシャブ食ってた。

伊藤君はニュータイプの不良だったな。

それまで僕のイメージでは、 不良=バイオレンス だったんだけど、

伊藤君には、そう言う要素がまったくない。

それなのに、 「東京帰ったら、デリヘルの仕事やる事になってるっす。」 とかサラッと言った。

伊藤君はデリヘルで10年働いて幹部になってた。

10年でショボかったデリヘルは芸能人の客も来る程の高級店になり、

伊藤君の月給が120万を超える頃、国税局と、警察が順番にやって来て、牢屋に入った。

驚くべきは、店が無くなった時点で、貯金が30万円くらいしかなかったってトコだ。なんと男らしい金使い。

そのガサは大規模だったんで、フライデーにも載ってたな。





伊藤君とは今でも時々、会う。

東京で、ある時、伊藤君のBMWのエンブレムつけたトヨタの4駆で飯を食いに行った事があった。

帰りに、路駐してた車の中でタバコを吸ってたら、警察に職質された。

そしたら車内から刃渡り5cmくらいのおもちゃのバタフライナイフが出てきて、

ポリが 「なんじゃこりゃー!!?」 と嬉しそうに叫んで、すぐにパトカーが6台くらい集結して、

伊藤君だけパクられた。しかも2、3日も。

「一緒の房に、無口なデカい黒人が居てさ、夜にオカマ掘られるんじゃねーかって、怖くて怖くて、」

恥ずかしそーに、出てきた伊藤君が言ってたな。





沖縄の海は外れに行くと人が少ないから、





ちょっと海が好きとか思ったな。





そいで、お盆休みが終わっちまったんで、ランパブに連れてってくれた近藤部長に電話した。

「と言う事で、色々な意味で帰れません。すんません!」

「・・そーか、わはは、じゃ、しょーがねーなー!・・・まぁ、色々と頑張れや!」

なんてかっこいい大人なんだ?と思ったな。近藤さん、色々と本当にありがとうございました。



那覇ミュージック



僕らは沖縄を一周して那覇に戻って来た。

そいでフラフラしてたら、シュールなストリップ小屋が目に入った。

これは、受付のババァが 「あいよ」 とか言って、割烹着を、ふぁさーっと脱いで、

踊るポンポコリンかますに違いねー。そー思って、冷やかしに行った。

すると入り口に立ってた奴が僕のバイクのナンバーを見て、そいつが「俺は東京の三鷹出身だ」って盛り上がり、

「住むとこ見つかるまでは家に泊まってきなよ。従業員も募集中だよ。」

ってんで、すんなりと宿と仕事を手に入れたんだな。


2014/06/11

Swell Out Day by Day, Year by Year,



Roonee at 四谷

"Hassel de Portrait"







秦基博 - Rain (言の葉の庭)


























Mr.PhotoRock



























東北大震災から3年経った。3年前に職場が ぶっツブれて無職だった僕は、

岩手から気仙沼まで→やじうま←しに行った。

そして多くの人達と同じ様に、この大惨事に 「自分には何か出来る事があんのか?」 と無力感に苛まれた。


被災地で支援活動を続けている人が言った。

3年経った今も、完全に復興したとは言えない状況にある。

どうか、その事を忘れないでほしい。と、



その話を聞いて、僕は昔、興味のあったアフリカの事を調べていた時の事を思い出した。

アフリカの内戦が続いているような国々は悲惨だ。

例えば、「貧しい子供の命を..」 って謳う募金に寄付をするとして、

募金で集まった金が、ちゃんとアフリカの貧しい国に届いたとして、

その金やワクチンや、支援物資は悪徳政府や武装ゲリラに略奪されたりする。

しかし時々、運良くワクチンが子供たちに与えられ、多くの子供の命が救われる事もある。

だが、大きくなった育ち盛りの子供の食料はないので、結局殆どの子供が死ぬ。

そして運良く生き残った子供たちは、武器を手渡され、内戦の前線に送られて、殺し、殺される。

ボランティア団体の人が言っていた。どうか、このアフリカの状況を知ってほしい。と、


アフリカに対して、僕が出来るのは、神の存在を忘れ、目を閉じ、耳を塞ぐ事くらいだ。

嫌な事は全部忘れて、無かった事にしてしまいたい。

でも、各々の当事者達にとって、過去は現在であり、

苦痛な事こそ心に絡み付いて、簡単には拭えないものなのだと思う。



阪神淡路大震災の事を、新潟中越地震の事を、スマトラ沖地震の事を、

第二次世界大戦の悲惨さ、従軍慰安婦がいた事、南京の大虐殺を、

アルメニアの虐殺を、中国共産党の文化大革命を、旧ソビエトの大粛清を、

ポルポトの虐殺を、ナチスドイツのホロコーストを、

キリスト十字軍とイスラムやユダヤ教徒の長い戦争を、

アメリカ原住民の屈辱を、アフリカ殖民地時代の虐殺を、

オウムの地下鉄サリン事件を、あらゆるテロに巻き込まれて死んだ人々を、

全ての事件の被害者を、平和な国の片隅で虐待されて死んだ子供たちの事を、

忘れてはいけないのです。

歴史を教える事は、実はとても重たいモノを子供に背負わせる事なのだ。

大人はズルいのです。気が付けば僕も随分ズルい大人になってるんだと思う。


降り続く雨のせいか、

それでもどうか、1人でも多くの病める人達に幸ある事を、今日は切に願うのです。




tokyo 1970



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