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2017/10/19

HELL BROS in DeadWorld






歳のせいか、眼鏡が汚れているせいか、元々の性格なのか、

目が曇ってしょうがない。

何もかも、曇って見えるのだ。









Therapy? - Loose








インターネットは素晴らしい。

音楽や芸術やエロや、買い物や、アイデンティティー、

秘密結社の内情や、政治の具体的な腐敗、世界の金の流れ、貧富のとんでもない差も、

庶民にも無料で情報を提供してくれる。






最初はその膨大な情報に感動して、

それから色々な人の生活や考えを眺めるうちに、

自分が如何に凡人であるかを再確認する。

凡人とはここでは、0から1を作れない人の事を指す。






言葉、考え、主義、主張、野望、ライフスタイル、愛、

あの喜びも、この悲しみも、いつかの葛藤も、

残念ながら、凡人にはオリジナルな選択など残っていないのである。

全ては、遥か昔から、無数の人々が行った行為を模倣しているに過ぎないと言える。






そんな事ばかり考えている。

あぁ、これはうつ病だ。間違いない。

僕はすぐに携帯でググって近所に精神科の病院が沢山ある事を知った。

予約はしなかった。






受付最終時間の頃に、やっと雑居ビルの7階の病院に着いた。

待合室は広くて、人がいっぱい座っていた。

どいつも負け犬の顔をしていた。






1時間ほど待たされて、小さな部屋に通されるた。

じじいの医者に根掘り葉掘りの事を聞かれ、隣で助手みたいな奴が会話をタイプして記録していた。

「なんにも、やる気がおきません。」

僕は、未来に希望が見えない事を掲げて、日々、やる気が全くでない事を訴えた。

じじいと助手も、覇気がなくて、うつ病みたいな感じだ。






「お薬、いりますか?」

「うーん、そうですねー、効果があるのであれば、、」

なんて言いながら、僕は心の中で小躍りした。

その為に来たのだ。

凡人の人生は虚しい。それを忘れる為には庶民なりの快楽を追求するしかない。






「わかりました。他になにか気になっていること、ありますか?」

「あー、あの、、、嫌、特にないです。」

「・・・何か?」

「いえ、いいです。」

「・・カウンセリングも受けますか?」

「いや、、うーん、、、はい」






再び僕は待合室に戻された。

受付から女がやってきて、この紙に木の絵を描いて下さいと言った。

面倒臭せー、何やら非常にムカついてきた。






僕は紙に大きく「木」と漢字で書いて、

「やっぱり、カウンセリングはやめときます。」

と言った。受付の女はオロオロした。

受付の女もうつ病みたいであった。






受付の女が行ったり来たりした後、

「では、今日はこれで終わりです。」と言った。

会計を済ませたが、処方箋が出てこなかった。

「あの、薬は?」

「今日はありません。」

「何で?」






僕は気が付くと、怒っていた。

大きな声で、「先程のお医者さんをここへ呼んで下さい」と言う内容の事を述べていた。

待合室の人達が代わる代わるこちらをチラチラと見ていた。

旅の恥はかき捨ててだと思い、情緒不安定を演出してカウンターを叩いてみたりもした。

再び、うつ病の受付係が行ったり来たりして、処方箋が出てきた。





サインバルタってやつと、ロラゼパムってのと、睡眠薬をそれぞれ1週間分貰った。

雑居ビルから外に出て、最寄りのコンビニで酒を買って一気に5日分を飲んだ。

30分くらいで目がいつもよりも曇ってきて、フワフワした感覚になった。

それから、家までの帰り道に色んなとこに寄り道した気がするが、断片的にしか覚えていない。






次の日目が覚めると、ちゃんと家だったが、

バーガーキングのアボガドワッパーと、マックのシェイクとアップルパイに、

ドンキーホーテで電子シーシャを買ったものが、そのまま玄関に置いてあった。

貰った薬は、更にもう1日分、無くなっていた。






職場でそんなに面白くなかった感想を話すと、

シンイチ君は、「またそれ、事後報告、、そー言うのはやる前にちゃんと教えてよ。」

と強い口調で言ってきた。

シュウゴさんは、難しい顔で「そうか、、」と言った。






シンイチ君が、1日ネチネチと言って来るので、次の休みにまた精神病院に行った。

前と違う女の若い医者だった。ブスだったけど。






僕は「薬を飲んで見ましたが、あまりよくわかりませんでした。」と言った。

ブスは「幻覚や幻聴は聞こえますか?」と言った。

僕は「そんな事あるんですか?」と答えた。

前よりも多い容量の薬が処方された。






次の土曜日の仕事が終わってから、

シンイチ君とシュウゴさんが家に来て、1週間分の半分づつをそれぞれ酒で流し込んだ。

程なく、2人ともイビキをかいて眠った。






次の日に3人で出勤してから、間も無く異変は起こった。

僕らの仕事は朝一が一番忙しい。






客でごった返すなか、シンイチ君は客そっちのけで、

温泉にでも浸かっているように、とてもリラックスしていた。

シュウゴさんは、いつも通り難しい顔をしていたが、時々目を閉じていた。

とうとう、10歳以上も年下の女子に、

「ねぇ、何やってんの!?ちゃんとして!」と怒られていた。






13時間くらい経って、仕事が終わった頃、

シンイチ君はしじみの味噌汁を飲んでいた。

シュウゴさんは、「ハッ」っとして、目が覚め、財布を無くしていた。






僕らは口数少なく、「また明日、」と言って解散した。



tomohiko hayashi

2017/08/12

Stone The Crow





増田さんはその頃、ヤクザでもないのに、

いいか林、ヤクザってのはプライドの為なら死んでもいいって思うもんなんだぞ。

と言った3年後に、汚ねー部屋で孤独におっちんだ。









Airi Hiramatu - Room & Y-shirts & Me


そろそろ海の底に地獄の扉が開いて、霊達が帰省して墓地が賑わうお盆ですね。

先日、同級生の北原君から連絡があって、

川崎のマンションから一軒家に引っ越したそうなので、遊びに行きました。

家はイギリスの田舎の少し古い豪邸みたいな感じで、イカしていました。

2階の暖炉のあるリビングで少し談笑していると、北原君と嫁が買い物に出かけて行きました。

出掛ける際に、「1人になったからって、オナニーすんなよ?」と言い、

「しないだろ?」と僕は答えました。

ベランダに出ると、広い庭とその先に森林が見えました。

そしたら、急に暇な気分になって、リビングのソファに座り、

エロDVDを見つけたのでオナニーをかましてしまいした。

終わった後、窓の外を振り返ると、北原君がニヤニヤと笑っていて、

その隣で嫁のカナちゃんがくっくっくっ、って感じで、

僕も照れて、おぃ!と言って笑う、そんな夢を見て、

久々になんだか、ほっこりした気分で目が覚めると大遅刻して大変でした。

なんとなく猫を飼いたい気分です!








僕は映像の専門学校を出た後、新宿にあった、

プロビデオステーション新宿って言うダセー名前の業務用の映像機材屋で週4日バイトを始めた。

店名は略してプビステだ。

面接してくれた店長の須藤さんの横に、

香水をぷんぷんさせて、オールバックでゴリラみたいな男が座って履歴書と僕を交互に見ていた。

それが増田さんであった。

その香水が甘い感じだったので、僕は増田さんの事を、なんだかメスゴリラみたいな人だなと思った。





増田さんは僕より15歳くらい年上で、ウンコも臭かった。

西新宿の店が入っている雑居ビルの便所で、

増田さんがウンコした後に便所に入ると、

香水とウンコのミックスで、臭いし、気持ち悪いし、

貧乏くさい便所だし、死にたくなる程だった。






増田さんは「あぁ?」が口癖で、すぐ怒る人だった。

1度言った事を2度言うのは、面倒なのでイラっとするのは分かる。

しかし、増田さんは「あぁ?違ぇーぞ、お前、これはこーだ、もーこらぁ!」と、

まだ初心者の僕に、1度目からキレてくる訳だ。





当然、僕はすぐに増田さんの事を嫌いになって、

出勤するとまず、「おはようございます。」と言いながら、

返事もせず、「あぁ?」って顔の増田さんに、

「お前嫌いやわー。」と怨念を込めながら、6秒くらい目を合わせてから始まる。

店はなかなかに繁盛していて、電話が鳴り続けていた。

店長の須藤さんは常にイライラしていたし、

増田さんは口を開けば怒るし、ちょっとミスした運送屋は速攻で襟首つかんで壁に押し付けてたりするので、

店中は常にピリピリしていた。

その他には、北条くんって僕と同じ歳くらいのバイトと、同じく高橋くんってゲイみたいな奴と、

パートの佐藤のおばちゃんと、経理の中柴さんって女の子がいたが、

みんな須藤、増田の顔色を伺うのが一番の仕事のようだった。


須藤さんは、役職は上であったが、増田さんにはだいぶ気を使っていた。

増田さんは、営業担当で外回りによく出ていく。多分外で、昼寝してんだろーけど、

増田さんがいない時、須藤さんが

「まぁ、しょうがねんだよ、あの人、俺の1こ年上だからさ、」

と言った。

僕は、ダメだこりゃ、辞めようと思ったのである。





そいで、いつ辞めてやろうか、タイミングを計っていたら、

天然オカマ口調の高橋くんが、増田さんに、

「このバカ、てめー、帰れ!2度と来るんじゃねぇ!」

と言われてクビになった。

そいで、僕に「おい、林、お前出勤増やせ。」

と言うので、「嫌です。しかも僕、怒れれるのすげー嫌いですからね、そろそろ限界ですよ。」

と返すと、それから僕は殆ど怒られなくなった。

しかたないので、相変わらず週4で働いてやる事にした訳だ。





業務用の映像機材屋と言うと聞こえはいいが、

客の半分くらいはエロビデオ屋で、クズみてーなのだったし、

映像業界の殆どは、芸能界に憧れるミーハーか、映像オタクかなのは確かだ。

増田さんはよく、「映像なんてチマチマしたもんが好きなやつなんて気持ち悪りぃよな?大嫌いだわ。」

と僕に言った。僕は面接で映像愛をアピールしてたから、

この人は、興味のない事は聞こえないタイプの人なんだと分かったので、

そーですよねー、気持ち悪いですねー。と答えてお茶を濁した。

増田さんは客を万引き野郎としか見ていなかったし、

5分以上いると舌打ちしまくって追い返した。

最高に感じの悪い店だったはずだ。





増田さんと楽しく話す様になったのは、増田さんが若かれし頃、

バイクでレースをやっていたって話を聞いてからだった。

10代の終わりころから、20代の前半あたりまで、ヤマハのTZ250で、

筑波のあそこのコーナーはギリギリ全開で回れるんだぞ!とか、

もー、コーナーの途中は外側にぶっ飛びそーで、めちゃくちゃ怖いんだとか、

当時、ツナギメーカーのセクレテールからレーシングツナギを貰って、テストに協力してたんだとか、

またバイクに乗りたいなとか、今度、レンタルバイクしてツーリング行くか?とか、





時々、飲みにも連れて行ってもらった。

突然、トルコ料理屋で微妙なベリーダンスを見せられたり、

移動の途中の電車で、入り口を塞いで立ってた女を突飛ばしたり、

何故だか新宿5丁目のニューハーフバーに行って、

シベリアに抑留されてたって70代のオカマと千円札をばら撒きながら話したり、

大衆居酒屋の店員の態度にイラついて襟首掴んで壁に押し付けたり、

嫁の話や、息子の話、娘はブスで今高校生なんだけど、貰い手がいなそうだから、林どうだ?とか、





増田さんは多分、敏感肌で、時々、口の周りをブツブツにして出勤してきた。

そんな日は大体、電話が比較的鳴らない土曜日で、ご機嫌であった。

僕は、ははぁ~んと思った。

僕が更に昔に働いていた、地元近くの東芝の工場で一緒に働いていた、

パンチパーマの加藤さんもそうで、加藤さんは、

「俺さ、肌が弱くて、女のマンコ舐めると、次の日必ず口の周りがブツブツになるんだ。」

と言っていた。どうやら、女の下から分泌される体液は乾くと酸性に変化するモンらしー。


ほいで、増田さんはブツブツにクリームを塗ったりしながら、

「昨日はよー、俺、アイスとか甘ぇーの嫌いなのによ、嫁が「あーん♪」とか言ってアイス食わしてきてよー、」

とラブラブトークをかましてくるのである。

僕は、「へー、結婚長くてそんな感じなんてイイですねー!」なんて言いながら、

実際にあり得ない話ではないので、素直に羨ましく思ったり、感心したりした。





話は戻って、

1970年代から80年代の日本では校内暴力ってムーブメントがあったそうな。

良く知られている具体的な話は、学校の校舎の窓ガラスを全部割ったり、

廊下をバイクが走ったりして、学級崩壊してしまう現象で、

それがメディアに増幅されて、全国に広がったと言う、

発展途上世代の、様々なシステムが未完全ゆえの面白い現象で、

本当に当時は、殆どの中学校、高校がやさぐれていたそうだ。


そんな時代の全盛期に増田さんは埼玉県で育ったそうだ。

当時の話は過激で、みんな新聞に載る事を目標に悪さをしてたって話や、

中学校の女教師は殆どレイプされたらしいし、

全校集会中に校長先生をナイフで刺してガッツポーズで警察に連れて行かれた友達もいたらしい。






その頃は悪い子供達が高校を卒業する年頃になると、

ひとしきり集められて自衛隊か警察官かどっちか選べって勧誘に来る話は

他の地方出身の先輩にも聞いた事がある。

だもんで、警察官も極悪な人種が多くて、汚職は当たり前だし、

バイクで暴走遊びしてると、警官が笑いながら車をぶつけてきて飛ばされたそうだ。

怖いわ。

今の時世では想像できないほどマッドマックスですね。





増田さんは、中学を卒業してすぐにヤクザになったそうだ。

暴走族してからヤクザになるより、中卒でなった方がすぐに幹部になれるからよ。

俺らはよく、夜中に道路で検問張って暴走族いじめて遊んでたんだぜ。

とドヤ顔で語っていた。

ほいでヤクザになって、事務所で電話番したり、ごみ収集所を任されて、

時々、死体を焼いたりしていたそうだ。





しかし、ヤクザの人達の多くは暴力しか取り柄の無い人なのだが、

Vシネマ映画のようにしょっちゅう抗争がある事もないし、見栄を張る為には金を生み出さねばならない。

シノギが上手だったり、カリスマ性があったりしない限り、なかなか幹部にはなれないのである。

凡庸なヤクザであった増田さんは、平成4年からの暴対法の煽りでどんどん生活が苦しくなり、

足を洗う事にしたそうだ。

それから不動産屋になって、そこに家を買いに来た武田さんと言う人に誘われて今の職に転職したそうな。

武田さんも、横山やすしみたいな雰囲気の人で、堅気の人間には見えなかった。





その業務用の機材屋は日立ハイテクソリューションズって会社の武田さんが映像作りの趣味があって、

放送用ではなく、業務用の店がまだ少なかったので実益を確信して作った、異例な店であった。


初めは順調で、その店が始めた定価破壊と価格競争でそれなりの大きな利益が出たそうだ。

しかし、ネット時代の到来で、仕入れの2%程の利益しか取れなくなり、

僕が働いてから2年もしない内に赤字が続くようになり、閉店した。

常連のお客さんが、2chの掲示板に「祝。閉店・・・」ってスレッドが立ってたよ。

と教えてくれた。






事実上、店は閉店したのだが、大きい会社には色々な事情があるらしくて、

すぐには無くす事が出来ないと、よくわからない説明をされ、1年間ほどの間に少しずつ売り上げを下げて、

部署を閉鎖する運びになった。

店舗は家賃100万の新宿から、芝公園の本社の肩身の超狭い片隅に引っ越して、

その時点で須藤さんは別の部署に移動し、

半年後に増田さんがまた別の営業部に行き、

最後の責任は何故だか僕が負わされる事になった。

完全閉店後、お情けなのか、契約社員として誘ってもらえたが、

僕は毎日髭を剃って、スーツを着続ける自信がなかったので断った。





それから2年ほど経って、武田さんから連絡があって、増田さんが死んだと聞いた。

あの後1年くらいで、増田さんは会社に居場所を見つけられなくなったみたいで、

辞めてしまったそうだった。

それから、40過ぎた暴力顔のゴリラにいい仕事が見つかる訳もなかったんだろう。





「え?自殺ですか?・・じゃあ、家族は大変ですね?可哀そうに、」

と、僕が言うと、武田さんは、

「何言ってんだお前?増田は独身だぞ。部屋で一人で死んでたんだ。親族からも絶縁されてたみたいだしな。」


・・・


増田さん、あの世でも、こーまん舐めると口の周りはブツブツになりますか?


ともあれ僕は、生まれて初めて人の死に心から冥福を祈ったんだな。



tomohiko hayashi

2017/06/22

a Time of Suicide Club





梅雨ですね。何か余計な事をウジウジと考えたりしていませんか?

脳みそにカビが生えるので注意してくださいね♪









きのこ帝国 - 春と修羅








何か余計な事を考えたりして、夜眠れなくなる事があるらしい。

僕にも人並みに思い悩む時があるが、生まれて今日まで眠れなかった事がない。

眠ってる場合じゃないよーな、人生において重要な時でも快眠で、寝過ごすくらいであった。







職場で、僕を含める何人かが屈折し過ぎているって理由で、非難されてたりして、

いやいや困りましたねぇ、わはははは、なんて話していたら、

確かに僕らは屈折してますけど、林さんは何かが決定的に欠落している気がしますけどね。

と、一緒にしないでね。と言わんばかりのカミングアウトをされて、

僕は少し恥ずかしい気持ちになった。







いい機会なので、僕も今まであまり人に話していない事をカミングアウトすることにした。

あれは20代の前半の頃だったろうか。

僕は自殺サイトの掲示板でオフ会を開いた事がある。







その頃の僕は言うなれば好奇心旺盛で、

多分、自分は特別な何者かで、崇高な何かの目的に向かっていて、

尚且つ知識と体験の間には深い隔たりがある事に気が付いていて、

何事も行動する事が重要であると信じていた。







屈折していて、灰色の青春ではあったが、

僕の目の前にも思春期の若者たちと同じように、生きる意味とはなんなんだい?

と言う、第一の壁がどどーんと現れたのだ。

素晴らしい。







映画の中ではしばしば、生と死は同義に語られる。

僕は間もなく宇宙の電波を感じて、

人間の死ぬ現場に立ち会ちあう使命を受信した。

そう人間がおっちぬ有様をこの目で見て感じる必然性を感じたのだ。







それは、病死だったり、交通事故死であったり、不慮のものではなく、

純粋なスイサイドか、情熱的なジュノサイドでなければならなかった。







当時はすっかりインターネットが普及していて、インターネットは今よりもまだ無法地帯であった。

闇の職業安定所みたいなのが流行っていて、そのなとこで知り合った人達が、

行き当たりばったりで犯行に繰り出す事件が度々ニュースで流れていた。

しかしそんなトコには、例えば仇討ち的な、純潔な目的の募集などある訳もなく、

何しろ、高確率で懲役刑になりそうなので僕はそのサイトを閉じた。


当然、自殺してる奴の横でとめもしないでウンウン頷いていたら、

自殺関与・同意殺人罪とかになるんだろうが、

そんなのは闇金融屋の為にある様なモンなんだろうから、大した事にはならないだろうと思ったのだ。

そんな訳で僕は自殺サイトでおっちぬトコを見せてくれる奴を探す事にしたんだ。






よく覚えていないけど、自殺サイトは無数にあった気がした。

サーフィンしてるうちに、古谷兎丸先生の自殺サークルって漫画を原作にして、

園子温が監督で映画をやる時に作った廃墟ドットコムってサイトにたどり着いた。


僕は園子温は演劇団の色が濃すぎで、演出が胡散臭いし、

映像にこだわりを感じなくてダサいから好みじゃないんだけど、

古谷兎丸先生は屈折界のホープのような人だと思ってファンだったので、そのサイトに落ち着いた。







今、思い出すと、本当に馬鹿だなぁと思う。

同年代の友達が出会い系で必死になってブスやつまらない女と出会おうとしている時に、

僕は今にも自殺しそうな奴らとメル友になってるんだからね。

毒とか練炭とか、首つりとか、飛び降りとか、完全マニュアルとか、

そんな話をしながら、本当に死にそうな奴を探すんだけど、

これが、なかなかいないもんなんだ。

時々、ラリパッパになってる奴が、ロレツの回らない文章で、

みもなて死のッ!

みたいな募集をしてたりして、

僕もバカだから正直に、「見に行っていい?」って聞くと

「そぺぱちっと、だめこもう」みたいに断られたりしていた。







そう言えば、村上龍の小説でも、本当に衰弱している奴は自殺しない。

自殺するには体力がいるから、本当に自殺する奴は一見すると元気そうな人なんだって書いてた。

こう言っちゃなんだが、そのサイトもウジウジ言ってるだけで、

何も起こらない様な無限のウジウジループが繰り広げられていたんだ。

僕はある日、廃墟ドットコムの掲示板で

オフ会しよーやで!とぶっこんでみると、

結構盛り上がって、20人からの参加者が集まる事になった。







ワクワクして繰り出した約束の地、新宿に現れたのは4人であった。

一人は僕が連れてきたクリマル君ってやつだったから、実際は3人だ。

1人はゴスロリルックの女子高生のグリコちゃんって子で、

もう一人は、とても健全そうに見える大学生だった。

グリコちゃんは、

「まぁ、自殺したいとか言ってる奴らなんて、こんなもんですよ。」

と言って笑った。







僕らは居酒屋で、グリコちゃんが「一応、」と言って持ってきた、

ハルシオンとベゲタミンを1つづつ飲んでから乾杯した。

大学生は、「僕は、全然、自殺とかする気ないです。」と言ったが、

村上龍の理論では、僕とあの大学生が一番自殺する確率が高かったのかもしれない。

グリコちゃんは、物心ついた頃から体中をウジが這い回る幻覚が見えるそうで、一般生活が大変だと話してくれた。

僕はどうしても人がおっちぬのを見たいんだって言って、

クリマル君は僕に「お前はほんまにアホやわ。」と言った。

大学生は卒業論文のテーマが決まらないと言って、首を捻った。






2時間もしない内にベゲタミンが効いてきて、みんなしゃべらなくなった。

睡眠薬と酒のミックスは、眠気と覚醒の間のフワフワ感を楽しむモノらしいのだが、

僕たちのような健康な素人に睡魔のコントロールなんてのは出来るものではない。

僕なんかは覚醒剤を試した夜だって、ぐっすり眠れた事があるくらいの、のびた体質だ。

それを察したグリコちゃんが、「では。また?」と言ってお開きになった。







僕とクリマル君は、無言で新宿の街を通り抜け、中央線に乗った。

中央線は、まるで戦場で兵士が輸送される列車の様に陰気だった。

僕らは立っていたが、眠くて眠くて、立ったまま寝たり、びくっとして起きたりして、

フラフラしながら、僕の実家のある東小金井に向かっていたのだが、

途中の三鷹でクリマル君が「×××!」と何か言いながら降りて行くのが見えた。







僕がハッとして、後を追うと、クリマル君はホームのベンチにプロ野球選手の様に頭から滑り込んだ。

ウォレットチェーンがプラスチックの椅子に擦れてガシャンガシャンと音がなっていた。

僕は何だあれは?と思った次の瞬間、あぁ、なんだ、家に着いたのか?と思い、

隣のベンチに僕も頭からスライディングして眠った。







程なくして、駅員に起こされて、ホームから出された。

僕らは家までの少し遠い道を無言で歩いた。

歩きながら僕は、僕の人生にはきっと、自殺とか、殺すとか、殺されるとか、

そんな大袈裟な事は起こらないのだろうと、

僕の人生は映画にならないのだろうと、

何故だかとても感じて、虚しい気持ちになった。







その後僕は、以前からサイトで知り合っていた14歳くらいの男子中学生と、

「今日こそは近所のマンションの11階から飛び降りようと思ったんですが、またダメでした、」

「そーかい。でも、自殺する勇気があるくらいなら、君の事をいじめる奴らを、

毒殺でも爆殺でもしてやればいいじゃないか?」

とか、それが出来ないのだろうと思いながらも、

ありきたりな言葉で励ましながら、メールのやり取りが少しの間続いた。

僕なんかしか頼る相手がいないのかって思うと、可哀そうでなかなか無視できなかったんだな。

結局その男子中学生がそれからどうしたのかは知らない。



インターネットのオフ会に参加したのはそれが初めてで、以降も無い。

もしあの頃に、誰かがおっちぬのを見ていたら、僕の人生は変わっていたのだろうか?

今となってはわからないね。




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