増田さんはその頃、ヤクザでもないのに、
いいか林、ヤクザってのはプライドの為なら死んでもいいって思うもんなんだぞ。
と言った3年後に、汚ねー部屋で孤独におっちんだ。
Airi Hiramatu - Room & Y-shirts & Me
そろそろ海の底に地獄の扉が開いて、霊達が帰省して墓地が賑わうお盆ですね。
先日、同級生の北原君から連絡があって、
川崎のマンションから一軒家に引っ越したそうなので、遊びに行きました。
家はイギリスの田舎の少し古い豪邸みたいな感じで、イカしていました。
2階の暖炉のあるリビングで少し談笑していると、北原君と嫁が買い物に出かけて行きました。
出掛ける際に、「1人になったからって、オナニーすんなよ?」と言い、
「しないだろ?」と僕は答えました。
ベランダに出ると、広い庭とその先に森林が見えました。
そしたら、急に暇な気分になって、リビングのソファに座り、
エロDVDを見つけたのでオナニーをかましてしまいした。
終わった後、窓の外を振り返ると、北原君がニヤニヤと笑っていて、
その隣で嫁のカナちゃんがくっくっくっ、って感じで、
僕も照れて、おぃ!と言って笑う、そんな夢を見て、
久々になんだか、ほっこりした気分で目が覚めると大遅刻して大変でした。
なんとなく猫を飼いたい気分です!
僕は映像の専門学校を出た後、新宿にあった、
プロビデオステーション新宿って言うダセー名前の業務用の映像機材屋で週4日バイトを始めた。
店名は略してプビステだ。
面接してくれた店長の須藤さんの横に、
香水をぷんぷんさせて、オールバックでゴリラみたいな男が座って履歴書と僕を交互に見ていた。
それが増田さんであった。
その香水が甘い感じだったので、僕は増田さんの事を、なんだかメスゴリラみたいな人だなと思った。
増田さんは僕より15歳くらい年上で、ウンコも臭かった。
西新宿の店が入っている雑居ビルの便所で、
増田さんがウンコした後に便所に入ると、
香水とウンコのミックスで、臭いし、気持ち悪いし、
貧乏くさい便所だし、死にたくなる程だった。
増田さんは「あぁ?」が口癖で、すぐ怒る人だった。
1度言った事を2度言うのは、面倒なのでイラっとするのは分かる。
しかし、増田さんは「あぁ?違ぇーぞ、お前、これはこーだ、もーこらぁ!」と、
まだ初心者の僕に、1度目からキレてくる訳だ。
当然、僕はすぐに増田さんの事を嫌いになって、
出勤するとまず、「おはようございます。」と言いながら、
返事もせず、「あぁ?」って顔の増田さんに、
「お前嫌いやわー。」と怨念を込めながら、6秒くらい目を合わせてから始まる。
店はなかなかに繁盛していて、電話が鳴り続けていた。
店長の須藤さんは常にイライラしていたし、
増田さんは口を開けば怒るし、ちょっとミスした運送屋は速攻で襟首つかんで壁に押し付けてたりするので、
店中は常にピリピリしていた。
その他には、北条くんって僕と同じ歳くらいのバイトと、同じく高橋くんってゲイみたいな奴と、
パートの佐藤のおばちゃんと、経理の中柴さんって女の子がいたが、
みんな須藤、増田の顔色を伺うのが一番の仕事のようだった。
須藤さんは、役職は上であったが、増田さんにはだいぶ気を使っていた。
増田さんは、営業担当で外回りによく出ていく。多分外で、昼寝してんだろーけど、
増田さんがいない時、須藤さんが
「まぁ、しょうがねんだよ、あの人、俺の1こ年上だからさ、」
と言った。
僕は、ダメだこりゃ、辞めようと思ったのである。
そいで、いつ辞めてやろうか、タイミングを計っていたら、
天然オカマ口調の高橋くんが、増田さんに、
「このバカ、てめー、帰れ!2度と来るんじゃねぇ!」
と言われてクビになった。
そいで、僕に「おい、林、お前出勤増やせ。」
と言うので、「嫌です。しかも僕、怒れれるのすげー嫌いですからね、そろそろ限界ですよ。」
と返すと、それから僕は殆ど怒られなくなった。
しかたないので、相変わらず週4で働いてやる事にした訳だ。
業務用の映像機材屋と言うと聞こえはいいが、
客の半分くらいはエロビデオ屋で、クズみてーなのだったし、
映像業界の殆どは、芸能界に憧れるミーハーか、映像オタクかなのは確かだ。
増田さんはよく、「映像なんてチマチマしたもんが好きなやつなんて気持ち悪りぃよな?大嫌いだわ。」
と僕に言った。僕は面接で映像愛をアピールしてたから、
この人は、興味のない事は聞こえないタイプの人なんだと分かったので、
そーですよねー、気持ち悪いですねー。と答えてお茶を濁した。
増田さんは客を万引き野郎としか見ていなかったし、
5分以上いると舌打ちしまくって追い返した。
最高に感じの悪い店だったはずだ。
増田さんと楽しく話す様になったのは、増田さんが若かれし頃、
バイクでレースをやっていたって話を聞いてからだった。
10代の終わりころから、20代の前半あたりまで、ヤマハのTZ250で、
筑波のあそこのコーナーはギリギリ全開で回れるんだぞ!とか、
もー、コーナーの途中は外側にぶっ飛びそーで、めちゃくちゃ怖いんだとか、
当時、ツナギメーカーのセクレテールからレーシングツナギを貰って、テストに協力してたんだとか、
またバイクに乗りたいなとか、今度、レンタルバイクしてツーリング行くか?とか、
時々、飲みにも連れて行ってもらった。
突然、トルコ料理屋で微妙なベリーダンスを見せられたり、
移動の途中の電車で、入り口を塞いで立ってた女を突飛ばしたり、
何故だか新宿5丁目のニューハーフバーに行って、
シベリアに抑留されてたって70代のオカマと千円札をばら撒きながら話したり、
大衆居酒屋の店員の態度にイラついて襟首掴んで壁に押し付けたり、
嫁の話や、息子の話、娘はブスで今高校生なんだけど、貰い手がいなそうだから、林どうだ?とか、
増田さんは多分、敏感肌で、時々、口の周りをブツブツにして出勤してきた。
そんな日は大体、電話が比較的鳴らない土曜日で、ご機嫌であった。
僕は、ははぁ~んと思った。
僕が更に昔に働いていた、地元近くの東芝の工場で一緒に働いていた、
パンチパーマの加藤さんもそうで、加藤さんは、
「俺さ、肌が弱くて、女のマンコ舐めると、次の日必ず口の周りがブツブツになるんだ。」
と言っていた。どうやら、女の下から分泌される体液は乾くと酸性に変化するモンらしー。
ほいで、増田さんはブツブツにクリームを塗ったりしながら、
「昨日はよー、俺、アイスとか甘ぇーの嫌いなのによ、嫁が「あーん♪」とか言ってアイス食わしてきてよー、」
とラブラブトークをかましてくるのである。
僕は、「へー、結婚長くてそんな感じなんてイイですねー!」なんて言いながら、
実際にあり得ない話ではないので、素直に羨ましく思ったり、感心したりした。
話は戻って、
1970年代から80年代の日本では校内暴力ってムーブメントがあったそうな。
良く知られている具体的な話は、学校の校舎の窓ガラスを全部割ったり、
廊下をバイクが走ったりして、学級崩壊してしまう現象で、
それがメディアに増幅されて、全国に広がったと言う、
発展途上世代の、様々なシステムが未完全ゆえの面白い現象で、
本当に当時は、殆どの中学校、高校がやさぐれていたそうだ。
そんな時代の全盛期に増田さんは埼玉県で育ったそうだ。
当時の話は過激で、みんな新聞に載る事を目標に悪さをしてたって話や、
中学校の女教師は殆どレイプされたらしいし、
全校集会中に校長先生をナイフで刺してガッツポーズで警察に連れて行かれた友達もいたらしい。
その頃は悪い子供達が高校を卒業する年頃になると、
ひとしきり集められて自衛隊か警察官かどっちか選べって勧誘に来る話は
他の地方出身の先輩にも聞いた事がある。
だもんで、警察官も極悪な人種が多くて、汚職は当たり前だし、
バイクで暴走遊びしてると、警官が笑いながら車をぶつけてきて飛ばされたそうだ。
怖いわ。
今の時世では想像できないほどマッドマックスですね。
増田さんは、中学を卒業してすぐにヤクザになったそうだ。
暴走族してからヤクザになるより、中卒でなった方がすぐに幹部になれるからよ。
俺らはよく、夜中に道路で検問張って暴走族いじめて遊んでたんだぜ。
とドヤ顔で語っていた。
ほいでヤクザになって、事務所で電話番したり、ごみ収集所を任されて、
時々、死体を焼いたりしていたそうだ。
しかし、ヤクザの人達の多くは暴力しか取り柄の無い人なのだが、
Vシネマ映画のようにしょっちゅう抗争がある事もないし、見栄を張る為には金を生み出さねばならない。
シノギが上手だったり、カリスマ性があったりしない限り、なかなか幹部にはなれないのである。
凡庸なヤクザであった増田さんは、平成4年からの暴対法の煽りでどんどん生活が苦しくなり、
足を洗う事にしたそうだ。
それから不動産屋になって、そこに家を買いに来た武田さんと言う人に誘われて今の職に転職したそうな。
武田さんも、横山やすしみたいな雰囲気の人で、堅気の人間には見えなかった。
その業務用の機材屋は日立ハイテクソリューションズって会社の武田さんが映像作りの趣味があって、
放送用ではなく、業務用の店がまだ少なかったので実益を確信して作った、異例な店であった。
初めは順調で、その店が始めた定価破壊と価格競争でそれなりの大きな利益が出たそうだ。
しかし、ネット時代の到来で、仕入れの2%程の利益しか取れなくなり、
僕が働いてから2年もしない内に赤字が続くようになり、閉店した。
常連のお客さんが、2chの掲示板に「祝。閉店・・・」ってスレッドが立ってたよ。
と教えてくれた。
事実上、店は閉店したのだが、大きい会社には色々な事情があるらしくて、
すぐには無くす事が出来ないと、よくわからない説明をされ、1年間ほどの間に少しずつ売り上げを下げて、
部署を閉鎖する運びになった。
店舗は家賃100万の新宿から、芝公園の本社の肩身の超狭い片隅に引っ越して、
その時点で須藤さんは別の部署に移動し、
半年後に増田さんがまた別の営業部に行き、
最後の責任は何故だか僕が負わされる事になった。
完全閉店後、お情けなのか、契約社員として誘ってもらえたが、
僕は毎日髭を剃って、スーツを着続ける自信がなかったので断った。
それから2年ほど経って、武田さんから連絡があって、増田さんが死んだと聞いた。
あの後1年くらいで、増田さんは会社に居場所を見つけられなくなったみたいで、
辞めてしまったそうだった。
それから、40過ぎた暴力顔のゴリラにいい仕事が見つかる訳もなかったんだろう。
「え?自殺ですか?・・じゃあ、家族は大変ですね?可哀そうに、」
と、僕が言うと、武田さんは、
「何言ってんだお前?増田は独身だぞ。部屋で一人で死んでたんだ。親族からも絶縁されてたみたいだしな。」
・・・
増田さん、あの世でも、こーまん舐めると口の周りはブツブツになりますか?
ともあれ僕は、生まれて初めて人の死に心から冥福を祈ったんだな。